私たちは、すでにその光景を何度も見ている
スポーツでも、アイドルでも、ゲームでもいい。
何かを応援していると、不思議な感覚になることがある。
自分はただの一ファンであり、当事者ではない。
試合にも出ていないし、運営にも関わっていない。
それでも、勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
まるで自分のことのように感じる。
この感覚自体は、とても自然なものだ。
問題は、その思いが別の方向に向いたときに起きる。
試合が終わった直後のSNSを見れば、すぐに分かる。
敗戦したチームの投稿には、厳しい言葉が並ぶ。
選手のプレーを強く批判する声。
監督の采配を責めるコメント。
さらに、他チームのファンが入り込めば、言い争いが始まる。
やがて、選手本人に直接届く言葉の中には、批判を超えて人格を否定するものまで出てくる。
こうした光景は、特別なものではない。
今では、日常的に目にする現象である。
応援には、どうしても「距離」がある
では、なぜこのようなことが起きるのか。
一つの理由は、とても単純である。
応援には、どうしても距離がある。
好きで、関わりたい。
時間も気持ちも使っている。
しかし、結果を直接変えることはできない。
どれだけ応援しても、当事者にはなれない。
つまり、
関わっているのに、関われていない。
この感覚が、静かに残り続ける。
人は「関わった実感」を欲しがる
人は、自分が何かに参加していると感じたい生き物である。
ただ見ているだけでは、物足りなさが残る。
だから人は、関わりを作ろうとする。
現地に行く。
グッズを買う。
情報を調べる。
どれも、関わるための行動である。
しかし、時間やお金、環境には限りがある。
やれることは、どうしても少なくなる。
それでも、関わりたい気持ちは消えない。
このとき、人は別の方法を選ぶことがある。
対立は「参加した証拠」になりやすい
それが、対立である。
誰かに反論する。
他のファンの意見を否定する。
選手や監督を強く批判する。
これらの行動は、すぐに反応が返ってくる。
返信がつく。
共感が集まる。
つまり、
自分が関わったことがはっきりと見える。
応援そのものは結果が見えにくい。
しかし、対立は結果が見えやすい。
だから人は、無意識のうちにそこへ流れてしまう。
「敵」を倒せば、自分が正しくなる
もう一つ、見落とされがちな理由がある。
人は、自分の選択を否定したくない。
長く応援してきた。
時間も気持ちも使ってきた。
その価値を守るためには、
自分が間違っていないと思いたい。
そのとき、
自分の正しさを証明するよりも、
相手を間違いにする方が早い。
敵を倒せば、自分の立場は自然と安定する。
これは特別な人の話ではない。
誰にでも起きる、ごく普通の心理である。
問題は「熱量」ではない
ここまで読んで、
「じゃあ、応援すること自体が問題なのか」
そう感じた人もいるかもしれない。
しかし、そうではない。
問題は、熱量ではない。
関わり方が一つしかないことである。
応援する。
それしか手段がない。
この状態が続くと、
人は別の形で関わりを作ろうとする。
その結果として、対立や攻撃が生まれることがある。
私たちは、関わっていたいだけなのかもしれない
もしかすると私たちは、
怒っているのではない。
ただ、
関わっていたいだけなのかもしれない。
この視点を持つだけで、
SNSで見かける光景の見え方は少し変わる。
そして、自分自身の行動も、少しだけ冷静に見直せるようになる。
続き:では、どう関わればいいのか
今回は、
「なぜファン同士の対立や誹謗中傷が起きるのか」
その理由を整理した。
ただ、本当に重要なのはここから先である。
では、
どうすれば健全に関わり続けることができるのか。
そして、
応援という行為を、前向きな形に変えることはできるのか。
この点については、もう一歩踏み込んで整理している。
心理だけでなく、具体的な向き合い方まで含めてまとめた。
続きは、noteで詳しく書いている。


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